北軽井沢の全室バストイレ付きペンションタイプの宿に泊まって
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歴史散策ツアー

 北軽井沢は、避暑地・別荘地として発展してきましたが、もともとは、法政大学の学長、松室致先生が所有する広大な土地(山)を法政大学の先生方に昭和3年(1928年)に坪1円で分譲したことから始まります。電気が来たのは昭和4年、水道が引かれたのは昭和5年でした。

 そのうち軽井沢に来ていた岩波茂雄さんが、その土地を見て大変気に入り、 一家をあげて移り住みました。そして、皆にこの土地を宣伝し、安倍能成、宮本和吉、田辺元、三木清、津田左右吉、谷川徹三、岸田国士、市河三喜先生等が家を建て始めました。

 照月湖を囲む大学村別荘地は、大きな区画で分譲され、自然をなるべくそのままに残した形で、その住人も大学関係者に限られたことから、ある種サロン的な、山荘文化といったものをはぐくんできました。 戦後、不動産会社の分譲による別荘地が増えていきましたが、「大学村」はそういった、新興の別荘地とは一線を画し一種独特のコミュニティを形成していました。 現在でも多くの文化人が、ここに別荘をもち、北軽井沢を舞台に創作活動を行っています。

 ちなみに現在の大学村は、縦2km、横1kmの面積で、舗装された4メートル道路が斜めに1本だけ走ってます。あとは全部ダート道で、昭和3年開村当時のままです。大学村では、舗装も道路も家の建築も約三百軒の村民が合議制で決めており、家が建てこまないためとまた、お金持ちに土地を買い占められないために、1軒が五百坪の土地になっています。


長野原町の歴史散策

先史時代

 長野原町の先史時代の遺跡・遺物は、新石器時代のものが多いです。その発見地は概ね山稜地帯にあります。これは、天明3年の浅間噴火に伴う泥流により、低地は土砂に埋もれてしまったためです。石器では石鏃(せきぞく)、石斧などが数多く出土しています。土器も出土していますが、ほとんど破片の状態で発見されており、完全な形をしたものは極めて少ないです。大字大津字勘場木では縄文時代の住居跡が発見されています。

奈良・平安時代

 奈良・平安期の遺物である瓦塔が長野原町中央小学校工事の際に発見されています。

源頼朝の巻狩伝説

 古来より三原(西吾妻一帯をさす言葉として使われていました。)に源頼朝が巻狩に来たという伝説があります。西吾妻(あずま)の地名や温泉の由来に源頼朝が関わっているとされるものも多いです。長野原町内にある川原湯温泉も源頼朝の巻狩の際、発見されたと伝えられています。

馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)

 樋口太郎兼重は、念阿弥慈恩の高弟となり、念流の兵法を修め、兼重念流と称するようになります。兼重の孫にあたる代高重の代に上野国吾妻郡小宿村(長野原町応桑小宿)に移り住み、さらに上州多胡郡馬庭村に移転します。

雲林寺

 国道145号沿いの長野原町役場から左手に入った所に雲林寺があります。ここは、明治22年に村が統合されて長野原町ができた際、当時は役場庁舎が無かったので、この雲林寺を借用したそうです。初代の町長には桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残しました。ここには、宝きょう印塔という、塔があります。これは、お経を写して塔に納めて供養すると極楽に生まれ変わる、と信じられていた塔で、平安時代に中国から伝わったものです。

羽根尾城

 天文年間(1532〜1555)初期にこの地方を支配する羽尾幸全によって築城されたといわれます。天文十(1541)年、信州佐久方面に進軍した武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に追われた滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆(諸説あり)は、鳥居峠を越えて吾妻郡の同族である羽根尾城の羽尾幸全を頼りました。そして羽尾氏の女を妻に娶(めと)りました。幸隆にとって、羽尾幸全はまさに恩人でした。
 羽尾幸全は幸隆らを庇護しましたが、海野平の奪還をめぐって、上杉謙信を頼ろうとする父・海野棟綱と、かつての敵の武田の被官となる道を選ぶ真田幸隆の意見が対立、幸隆は箕輪城を出て、甲斐府中の躑躅ヶ先館の武田信玄の被官となりました。
 幸隆はその後、信濃先方衆、上州先方衆として小県から吾妻にかけての攻略を命ぜられ、大恩のある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになります。幸隆の当面の課題は岩櫃城の攻略にありましたが、岩櫃城の斎藤氏と鎌原城の鎌原氏の対立を利用して侵攻、永禄六(1563)年、羽根尾城、長野原城周辺で合戦となり(長野原合戦)、羽尾幸全は戦死したとも、越後上杉氏を頼って落ち延びたとも言われます。その後は幸隆は岩櫃城、箕輪城を攻略し、吾妻一帯を支配しました。

嬬恋村の歴史散策

 嬬恋村の歴史は村内各所から縄文・弥生式の石器や土器が出土していることから、6・7千年前からすでにこの地で人々の生活があったと想像されています。荘園時代には三原の荘に属し、信濃から移り住んでこの地を開拓した清和源氏といわれる滋野一族が支配しましたが、戦国時代武田・真田氏によって沼田領となり、天和元年(1681年)真田氏改易のあと幕府直轄となって明治維新まで代官所の支配が続きました。
 江戸時代には北国往還の裏街道として交通が開け、大笹には関所があって宿場として荷物を運ぶ人馬の往来で賑わい、沿道の村々では馬が輸送産業の主役を果してきました。
 ここで村の歴史を語る上で見落とすことのできないものに、天明3年(1783年)の浅間山大噴火“浅間焼け”があります。この大噴火により旧暦7月8日の昼近く、浅間山の火口からあふれた土石流が鎌原村一帯に流れだし、約750人の住民のうち、鎌原観音堂にかけ登り、難を逃れたのはわずか93人でした。残りの人々は土石流の犠牲となり、鎌原村は観音堂と石段の上部15段を残してすべて埋め尽くされたのでした。

雪山賛歌の碑

 大正15年、鹿沢温泉でスキー合宿をした京大山岳部は天候の悪化により宿に閉じ込められてしまいました。そのときつくったのが「雪山賛歌」。当時部員として参加していた西堀栄三郎氏(第1回南極越冬隊長)が作詩したものです。

大笹街道

 嬬恋村を横切る国道144号線は、江戸時代、大笹街道と呼ばれ人馬が往来する北国街道の脇往還でした。今に残る大笹宿のたたずまいや大笹関所跡から、当時の姿を偲ぶことができます。

大笹関所跡

 寛文二年沼田薄主真田伊賀守により、大笹村に設置されたものです。明治2年廃関となるまで約200年余り沼田−吾妻−上田、高崎−仁礼−善光寺を結ぶ仁礼街道(大笹街道)の通行人や、草津温泉の入湯客など北国街道の脇往還の通行人を取り締まりました。
関所の門扉は、当時の図面をもとに昭和21年に対岸の西側に復元したもので、大笹村の宿場のかつての賑わいを伝える史跡です。

蜀山人の浅間焼碑(村指定)

 天明三年の浅間山大爆発による悲惨な状況を後世の人に伝え残すため、大笹村問屋黒岩長左衛門大栄が江戸の歌人蜀山人に碑文を依頼し、文化13年その子侘澄(わびずみ)が大笹に建立したものです。石質は安山岩で高さ2.15m幅、1.45m厚さ50cmの自然石で現在は鬼押出し園内にあります。

鎌原観音堂

 天明3年の浅間山大噴火で、鎌原村は時速100kmにおよぶ火砕泥流に、477人の村人とともにのみこまれました。その時、この観音堂に逃れた93人は奇跡的に助かりました。50段あった階段もわずか15段だけ今も残っています。以来、観音堂は厄除け観音として信奉されています。

嬬恋郷土資料館

 鎌原観音堂の隣にあり、嬬恋村の歴史のすべてがわかる資料館です。1階展示室は、発掘出土品や収集資料を展示し、浅間山大噴火の様子を今に伝えています。2階展示室では、特産のキャベツのすべてがわかり、3階パノラマ展望台からの浅間山や、白根山の眺望は必見です。

中居重兵衛の墓

 中居重兵衛は通称選之助と呼ばれ、文政三年三月中居村(現在の三原)に生まれました。20才の時出奔して江戸に上り、多くの研讃を重ねて安政元年には日本橋に店舗を構え、さらに安政6年には横浜に豪華な店舗を築いて、横浜開港に尽力しました。また、ここを本拠地として外国に生糸を輸出し、華々しい生糸貿易を展開しました。ところが、文久元年江戸で謎の急死を遂げてしまいました。(行年42才)著書に「集要砲薬新書」や「子供教草」があり、生家の三原中居屋旅館には関係古文書が保管されています。